女装と批評

なぜトランスジェンダーの人には批評家になる流れがあるのか。
これまでも美輪明宏、ピーコまた近年では女装化のマツコやミッツマングローブなど批評家の系譜がある。

しかしそもそも最近の女装家とは何なのか。
知恵袋の誰かの解説を参照すると(→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463291734
性と身体と外見の違いでこう分けることができるらしい。


① ニューハーフ(同性好き:性転換手術:あり、女装:あり)

② オカマ(同性好き:性転換手術なし:女装:あり)

③ ホモ・ゲイ(同性好き:性転換手術なし:女装:なし)

④ 女装(同性・異性好きはよりけり:性転換手術なし:女装:あり)


女装家は同性愛者ということではなく「ストレート」が多いらしい。
では一体なんのために女装をしているのか。

おそらく、社会の外にでるためではないだろうか。

マツコやミッツなど、女装家は批評家や批判眼で注目されている。
もともとオカマやゲイの人にも社会批評家は多かった。
これにはちゃんとした根拠がある。

オカマやゲイはいわゆる「マイノリティ」である。
彼らは社会、他人、ましてや家族からも奇異の目で見られてきた経験を持つ。
奇異とは「普通とようすが違って」いることであり、「普通」とは社会常識のことである。

つまりオカマやゲイは社会常識の外で暮らしてきた経験を持つ。
それゆえ社会を外から眺める批判眼を持たざるをえなくなる。
女装化は批判眼を持たざるをえなかった人々ではない。
むしろ「ストレート」であっても社会の外に立ちたい人こそが自ら女装し、
奇異の目で見られることで自発的に社会の外に立たんとしている。

女装とはつまり社会の外への入り口である。

こうして考えれば、同じような最近の例として「尾木ママ」がオネェ言葉になる理由も推測しうる。
彼は「生徒と交換日記をやりとりしていてオネェ言葉になった」と聞く。
教師というのは学校において常識を象徴する立場にある。
しかし思春期の常識に疑問を抱く生徒と心通わすためには自分が凝り固まった常識の体現者であってはならない。
学校という常識の塊に疑問を抱く生徒には「先生は実は普通ではない」ことを表明することこそが、心を開いてもらうパスポートの役割を果たすのかもしれない
オネェ言葉は、自分が普通ではないことを表明するドレスコードのようなものだと思う。
オネェにはなぜか相談できてしまう。
彼はそういうスキルを用いている。