低学歴と高学歴の世界の溝 in 関西ローカル

低学歴と高学歴の世界の溝:はてな匿名ダイアリー

私のいる世界

地方都市で、低学歴と高学歴の世界が交わるとき

これらの記事は私も皮膚感覚で色々と共感できる一方で、これが関西地方になるとまた独特の要素が入って来る。

関西ローカルの低学歴世界はまぁ酷いし、それを良しとする文化的地盤があるのがやっかいなのだ。

それを大学に行かない友人が大半だった小中学校時代の自分の経験と、そこそこ高学歴の関東の大学に入ってからのカルチャーショックを踏まえて書いてみたい。


結論から言うと関西ローカルでは「低学歴と高学歴の溝」を「諧謔文化」が支えている。

関西の地方では知識や議論や意味というのが全く「深まらない」!笑いを取るやつがスクールカーストの上位にくるため、

まじめに知識や意味を知っているやつより、知識や意味を茶化す技法を身につけているやつがモテるし偉いと見なされる。

この違いにはっきり気づいたのは関東の大学に入ってからだ。関東で知り合った友人が自分の趣味の魅力を淡々とこちらに

語りかけてきて他の友人もそれにさらに自分の知見を述べて、議論や話が深まっていくのを見たときだ。

もしこれが関西だったら少しでもマニアックな知識が出てきたらそれが隠語になって遊びへと横滑りしていく。

例えば俺が特急列車の「やくも」が好きで、こう言ったとしよう。

「‘やくも’って島根を走ってる特急列車があって出雲地方の八雲立つって言葉から命名されたんだってさ」

自分の印象では関東の大学でこういう話をしたら、友人はこんな返しをしてくれる。

友人A「出雲地方って今でこそ人口が日本で二番目に少ない県だけどヒミコのロマンなんかもあって旅行で行ってみたいよね」
友人B「そうそう、荒神谷遺跡とかもあるし面白いよね」

みたいなイメージだ。あくまでもイメージだが、ある知識に対してさらに自分の持っている知識で返してくる。

これが関西の地方だったらどうなるか。

俺「‘やくも’って島根を走ってる特急列車があって出雲地方の八雲立つって言葉から命名されたんだってさ」
友人A「あー、‘やくも’な、小さい頃よくおかんが晩飯に出してたわ」
友人B「生きのいいやくもが入ったときは、刺身がうまいよな」

これが関西だ。全く話が深まらない!ちょっとでも変わった知識を披露したら関西では完全にネタにされる。

これはその瞬間は面白いのかもしれないが、どんな話をしてもまったく同じ話になるため友だちと話をしていて知識や議論が深まることがない。

だからそのうちに真面目に何かを憶えて話す気がなくなる。「もうええわ」となってそういう話自体をネタ以外の意図で出すこともなくなる。

そうして真面目に何かを語りたい奴は「さむい奴」と見なされて会話の輪から排除される。

真面目に何かを考えたり知識を深めるのではなく、茶化しのノリだけで常に会話が回っていくからノリだけで知識や物事を知らずとも何となく生きていける。

関東の大学では違っていた。自分が知らないことを会話されたら、それをそもそも少しでも知らないと上手く会話の輪に入れない。

上手く茶化す奴ではなく、よく知っている奴がすごいなと思われる。いわゆる「リテラシー」の捉え方の違いだ。

大学を出て社会に出て色々な知識や考えを経て地元の友だちに会うと彼らとの会話は小中学校の頃と何も変わらない。

茶化しのパターンだけは洗練されている。しかし肝心の中身がないから会話には幅や深みはない。

なんとなく分かっている、なんとなく知っている、なんとなく会話している感じで日常が回っていく。

真面目に理解したり、知ったり、語ることは「サムイ」奴のやることだと思っている。

それが良いのか悪いのかはよく分からない。

あぁそうだ、これは関西芸人の「バラエティ番組」そのものじゃないか。

いずれにせよ、地方の大学に行かない友人が大半の小中学校時代と、関東の大学時代に

こういう文化の違いを感じたことを思い出した。

どっちの世界が好きかって?関西ローカルだよ馬鹿野郎、だから全く深まらないんだよ。





追記:たくさんコメントいただいてありがとうございます。色々な意見をもらえて正直に嬉しく思っています。

半分お叱りのようなコメントもありましたwそのなかで「知識は前提で茶化すのが至高」みたいなコメントも多くいただいてたと思います。

「笑いと深さは両立する」というような指摘もありました。どちらもその通りだと思います。上方落語の話も「そうなのか」と自分の無知を痛感し、

なんでお前らに叱られなあかんねんと素直に反省する部分もありました。

けれども伝えたかったのは、そういう笑いと深さが両立した世界とは別に、茶化す技術だけを高めて

深まらずに知識がなくとも回っていく世界があるということでした。

インスタントのうどんに入っているエビを想像してみてください。

一見立派なエビ天ですが、周りはほぼ衣です。エビだろうとアナゴだろうとトンカツだろうと、

中身がほんの少しでも、笑いの技術があれば全て立派に見せることができてしまう

そういう世界だったと思っています。お腹いっぱいになって、でも何食べたのかって振り返ると

なんだかいつも同じだったような感じがする。そんな会話の世界です。

憲法改正どうおもう」⇒「お前の天パが憲法違反やろ」

「消費税増税ってどうよ」⇒「お前のモジャモジャに課税したいわ」

「TPPどうなるんやろな」⇒「頭がTPPやないか」

こんなんです。一週間後にはクラス全員から「TPP」と呼ばれ、もう一人の天然パーマとジャンケンさせられて「TPP交渉始まった」とか言われるんです。

ともかくどんな話題でも知らなくてもなんとかしてきます。

ある意味凄いと思うのですが、凄すぎて知識や深まりが必要ないんです。

もちろん自分のいた地域の話を「関西ローカル」として一般化してしまったので

「違う」と思った関西の方もいたと思います。

少なくとも自分のローカルの体験はこんな感じでした。

はっきり言えるのは、「知識」が前提で「諧謔」があるのではなく、

諧謔」ありきで「知識」をそれっぽくつけようとするスタンスの違いでした。