「ほら見ろ!これが世間だ。恥を知れ!!」
こんな記事がまたあがっていますブロンコビリーがバイト撮影問題を起こした足立梅島店を閉店 バイト店員に損害賠償請求も。
アイスケース問題は、「世界」が違うという話から、「学歴」論争に展開し、あげく関西の地域性まで含めた素晴らしいエントリーもありました。
しかしそこには複数の評価軸が混在していました。こんな感じです。
複数軸
①低学歴⇔高学歴
②非常識(コミュニティ狭い)⇔常識的(コミュニティ広い・社会的)
③頭悪い⇔頭良い
しかし結局、アイスケースや冷凍庫に入ってツイッターに画像を上げてしまう問題は
低学歴とか、頭が良い悪いとかいう話ではなく、
②の常識があるかないかにつきる話だったと思います。
この点、脱社畜ブログさんが明確に指摘されています。
しかし脱社畜さんのブログでは常識の話を、学歴と常識の有無の相関という話や「育ちの良さ」といった
なんとなく「学」や「教育」(或いは教育資本)問題に向かわせがちですが、常識の問題は知識や教育ではなく
「コミュニティへの帰属意識」問題であると私は思っています。
そう考える理由は「常識」が、「複数の人が共有している見識(sense)」だからです。
「複数の人」の範囲が広くなればなるほど、常識としての純度が高くなります。
逆に範囲が狭くなればなるほど純度が低く非常識の可能性が出てきます。
最大級の範囲が「社会」常識で、最小級の範囲が「仲間内」。
低学歴であろうと、高学歴であろうと、
広いコミュニティへの帰属意識が強くあれば非常識なことはできません。
しかし狭いコミュニティ意識の方が強くかつコミュニティが閉鎖的であれば、
非常識なことをやってしまう。
例えば恋人の誕生日にバラをくわえて登場するとか。
まさに「二人の」最小範囲の閉鎖的世界で、身の毛もよだつ非常識をやってしまうわけです。ドン引きです。
この意味で「私のいる世界」を書かれたブログさんは
重要な点を指摘されていたのだと思います。
「世界」という言葉はコミュニティの閉鎖性と分断を見事に表現しています。
ある狭い世界の常識は他の世界の非常識である。
そしてその世界を出るとハタと「なんであんなことやってたんだろう」と気付く。
頭が良かろうが高学歴であろうが、どれくらいの規模のいかなるコミュニティへの帰属意識を持っているのかが重要です。
頭が良かろうが高学歴であろうが、閉鎖的で狭いコミュニティに属していれば「非常識」なことをやってしまいます。
大学教授とか「非常識」な人も結構います。
脱社畜さんも指摘されていた有名大学のサークルノリも同じです。
全裸で河原を疾走することが「大学生活」だと思い、
「ハイデガーの先駆的死への決意だねぇ」とか自分の世界の意味不明な事を口走って「あのおっさん頭おかしい」とか事務に言われるわけです。
結局、この手の問題を終わらせるためには、
より広い開放的なコミュニティへの帰属意識を高める機会を増やしていくしかないんじゃないでしょうか。
仲間でも親戚でも、地域限定でもなく、
不特定多数に開かれた別の「コミュニティ」に触れて、かつそこへの「帰属意識」を
肯定的に若いうちから持てるようになれば、
もっとこういう問題はなくなるのかもしれません。
かつては恥の文化の「世間さまが見てる」という感覚が、各「世界」の分断を統合し社会への帰属意識と監視の眼差しを支えていた日本ですが、
今は「世間」はツイッターというコミュニケーションツールの監視に一部取って代わったのかもしれません。
×馬鹿をやると世間様に顔向けできない
○馬鹿をやると発見されて世間様に強制顔向けさせられる
「ほら見ろ!これが世間だ。恥を知れ!!」みたいな感じでしょうか。
いずれにせよ測るべき軸は帰属意識を持っているコミュニティが
「広いか狭いか」「開放的か閉鎖的か」ではないでしょうか。
まぁ私はバレずにかつ迷惑かけない範囲であれば仲間内ではどんどん非常識をヤレば良いと思っています。
馬鹿をできる自由だってあるのだから、完全に閉鎖系のコミュニケーションツールでやれば
「非常識の馬鹿」も「常識」として保って遊べるのにと思うのですが、非常識な考えでしょうか。