天然とバカの違い

よく「あぁあの人、天然だからな」という言葉を聞く。
しかし自分から言わせれば、往々にして単なる馬鹿を天然と呼んでいることが多すぎる。
つまり、天然と馬鹿がちゃんと区別できていない。

天然は馬鹿ではない。
馬鹿な人はただ知識がなかったり、理解力がなかったりするだけだ。
しかし天然は知識や理解力がある人にも存在する。
つまり知識や理解力があるのに、それを独自の仕方で整理しているところに「天然」がある。

天然という言葉の対義語は人工だ。
普通、教育を受ければ人間は人工的なとらえ方を押しつけられる。
知識や理解も多かれ少なかれ、いつの間にか世の中と同じようなとらえ方になる。

しかし一部の人間は既に人間が蓄積してきたとらえ方とは違う切り口で知識や経験を処理している。
その「人工的」ではない切り口に、天然がある。
あの人の考え方は一体どこの生態系で保持されてきたんだろう?
と疑問に思うような淘汰を逃れた個性の存在が天然だ。
天然は人工ではないから凄いなとも思うし、なんだかワクワクする。
だが馬鹿には凄いともワクワクもしない。

これを踏まえて、馬鹿と天然が一緒くたにされてしまう理由も明らかになる。
馬鹿は人工的教育をちゃんと受け入れていないことが良くあるから、
独自の天然の要素がある。それが時に人をハッとさせる。
あの人馬鹿っぽいのに凄いなぁと思ったりする。
しかしこれは知識や経験がつくほど消えていくものだ。
天然を維持するのは非常に難しい。
特に知識や経験を重ねれば重ねるほど、天然は淘汰されてしまう。
淘汰を逃れ、知識や経験の集積にも関わらず独自の観点を保持する人は
そのうちに天然ではなく天才って呼ばれるんだろう。

拡張現実の新しさって何?

拡張現実(agmented reality )の説明はWikipediaにこう書いてある
「現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを指す言葉」

その説明にドラゴンボールの「スカウター」が拡張現実の一種だと書いてある。
スカウターとは、敵の戦闘力が表示されるメガネであり
要するに、

「現実」+「バーチャルな情報の補足」=現実の拡張!

ってことだ。

これのどこが新しいのか?
ポイントはバーチャルリアリティとの違いである。

現実とバーチャル(仮想現実)は排反関係
だが現実と拡張現実は補完関係

仮想現実は現実から逃れる場所だったが、
拡張現実は現実自体を変えていく空間だ。

そのうちに現実を補完するのが拡張現実ではなく、
拡張現実を補完するのが現実という転覆が
すぐに起きるんだろう。