アナーキズムと雪の女王

アナと雪の女王を見て、正直なんら面白いとは思わなかった。

私が重視する思想的に特筆すべきことは何も感じなかったからだ。

歌はすばらしかったと思う。吹き替えの音楽も素直に良かった。

しかし思想はどうってことはない。こういう設定の解説もまぁそうかという感じ。

映画そのものではなく「『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣」このジェンダー論に絡めた記事はなるほどと得心したぐらいだ。

そのほかで強いて言えば、アナと雪の女王のアナはアナーキー(Anarchy)のアナを示していたのかな、などと言葉遊びを考えた。

Let it Goの歌はアナーキズムの賛歌だ。

国とかは知らん。

妹?なにそれ。

人間社会、勝手にすれば。

私は山奥で自力で暮らす。

社会とか制度とか国家とかそんなものはどうでもいい、「ありのまま」への人間回帰。

ここにLet it goの翻訳がある。

「ルールもないわ、私は自由よ」

そうだよね、アナーキストだもんね。

アナーキストの姉を社会という鎖をもった妹が追いかける。

アナーキストの姉が唯一ためらったのは、制度や法律ではなく、人間を殺したくはないという「道徳感情」だったかもしれない。

そうして同じ人間という啓蒙的道徳感情アナーキストの姉を無理やり国家に呼び戻し、

最後は社会という鎖はろくなもんじゃないということをハンス王子が見事に示すが、

社会とは権力争いなので、より強大な力をもったエルサが国家権力の要として秩序を回復する。

こうしてエルサの抑止力が国家の警察暴力として有効利用をされることで皆に秩序と絶対暴力下での平和をもたらしたのでした。ちゃんちゃん。

ワクワクが止まらない情報理論と生物学の邂逅

東大、シャノンの情報理論を用いて細胞の情報伝達がロバストであること発見

このニュースを読んでワクワクが止まらなかった。

このニュースはどういうニュースだったのだろうか。
要点はこうだ。生物学の対象である細胞を
情報学のシャノン理論に当てはめた場合、
堅牢(ロバスト)という性質を持っていることが分かった。

これの何が発見なのだろうか。
私が解釈したのはこういう話だ。

ES細胞やips細胞という「幹細胞」がある。
幹細胞というのは、幹というだけあって様々な臓器や身体のあらゆる細胞の元となりうる細胞だ。

これらの幹細胞は胃や足や脳などに変化していくわけだが、
様々に変化していくということはつまり元々「何」になるのか
遺伝子で決まっているわけではないということだ。

では幹細胞はどのように「何」になるのかが決まっていくのか。
知恵蔵2013によると「適切な条件を与えられる」とそれぞれの臓器などに分化するというのだ。

一定の条件や文脈で初めて「何」になるのかが決定する。
これはどういうことだろうか。

幹細胞は予め何になるのか遺伝子で決定していない。
遺伝子という設計図で決定しておらず、ある環境の条件下ではじめて変化が決まる。

言い換えると幹細胞は特定の条件を提示する環境とやりとりをして自分が何に変化すべきかを決めている。
つまり幹細胞は環境と「通信」をしていると考えて良い。

ではその通信はどういう仕組みで成り立っているのか

この問いにおいて、生物学は情報学と邂逅する。
すなわち、細胞はどのように環境と情報をやりとりしているのかという問いが立つ。

今回東京大学の研究が明らかにした情報伝達の特性は堅牢であるということだ。
堅牢とは記事において「情報量が1ビットに保たれる」ということである。

細胞は環境と通信するが、その際に情報のやりとりはつねに
最小単位の1ビットに保たれる。

生物学と情報学の邂逅において細胞が異常増殖するガンは次のように解釈される。
ガンとはつまり細胞に異常増殖の情報命令が行われてしまった細胞群である。
そうであれば、異常増殖の情報命令をいかにして制御したり書き換えたりすることができるのかということが、
ガンを克服する医療の課題となる。

今回の研究を踏まえてガンへの異常な情報通信を制御するために
情報通信を阻害する薬を投与しても、それが堅牢性の通信(1ビットのピンポイント)
に直接介入していなければ、効果は期待できないことが分かった。

逆から言えば、その1ビットの情報通信にピンポイントに情報制御を施す薬か、
あるいは堅牢性が低い情報通信のやりとりがある細胞を見つけることができるならば、
そこを攻めれば良いという可能性が見えてきたというのがこの記事の話だ。

こうなると細胞に薬の効能を作用させる医学とは、
細胞への情報通信をどのように制御するのかという情報医学であるという局面が開けて来ている。

生物学は情報学へと水準移行を進めている。
マトリックスの想像力などとっくに現実に追いつかれてきている。
そういうことを思うとワクワクとニヤニヤが止まらない。

「ほら見ろ!これが世間だ。恥を知れ!!」

こんな記事がまたあがっていますブロンコビリーがバイト撮影問題を起こした足立梅島店を閉店 バイト店員に損害賠償請求も

アイスケース問題は、「世界」が違うという話から、「学歴」論争に展開し、あげく関西の地域性まで含めた素晴らしいエントリーもありました。
しかしそこには複数の評価軸が混在していました。こんな感じです。

複数軸
①低学歴⇔高学歴
②非常識(コミュニティ狭い)⇔常識的(コミュニティ広い・社会的)
③頭悪い⇔頭良い

しかし結局、アイスケースや冷凍庫に入ってツイッターに画像を上げてしまう問題は
低学歴とか、頭が良い悪いとかいう話ではなく、
②の常識があるかないかにつきる話だったと思います。

この点、脱社畜ブログさんが明確に指摘されています。

学歴の有無と常識の有無


しかし脱社畜さんのブログでは常識の話を、学歴と常識の有無の相関という話や「育ちの良さ」といった
なんとなく「学」や「教育」(或いは教育資本)問題に向かわせがちですが、常識の問題は知識や教育ではなく
「コミュニティへの帰属意識」問題であると私は思っています。

そう考える理由は「常識」が、「複数の人が共有している見識(sense)」だからです。

「複数の人」の範囲が広くなればなるほど、常識としての純度が高くなります。
逆に範囲が狭くなればなるほど純度が低く非常識の可能性が出てきます。

最大級の範囲が「社会」常識で、最小級の範囲が「仲間内」。

低学歴であろうと、高学歴であろうと、
広いコミュニティへの帰属意識が強くあれば非常識なことはできません。

しかし狭いコミュニティ意識の方が強くかつコミュニティが閉鎖的であれば、
非常識なことをやってしまう。

例えば恋人の誕生日にバラをくわえて登場するとか。
まさに「二人の」最小範囲の閉鎖的世界で、身の毛もよだつ非常識をやってしまうわけです。ドン引きです。

この意味で「私のいる世界」を書かれたブログさんは
重要な点を指摘されていたのだと思います。

「世界」という言葉はコミュニティの閉鎖性と分断を見事に表現しています。
ある狭い世界の常識は他の世界の非常識である。

そしてその世界を出るとハタと「なんであんなことやってたんだろう」と気付く。

頭が良かろうが高学歴であろうが、どれくらいの規模のいかなるコミュニティへの帰属意識を持っているのかが重要です。
頭が良かろうが高学歴であろうが、閉鎖的で狭いコミュニティに属していれば「非常識」なことをやってしまいます。

大学教授とか「非常識」な人も結構います。
社畜さんも指摘されていた有名大学のサークルノリも同じです。
全裸で河原を疾走することが「大学生活」だと思い、
ハイデガーの先駆的死への決意だねぇ」とか自分の世界の意味不明な事を口走って「あのおっさん頭おかしい」とか事務に言われるわけです。

結局、この手の問題を終わらせるためには、
より広い開放的なコミュニティへの帰属意識を高める機会を増やしていくしかないんじゃないでしょうか。

仲間でも親戚でも、地域限定でもなく、
不特定多数に開かれた別の「コミュニティ」に触れて、かつそこへの「帰属意識」を
肯定的に若いうちから持てるようになれば、
もっとこういう問題はなくなるのかもしれません。
かつては恥の文化の「世間さまが見てる」という感覚が、各「世界」の分断を統合し社会への帰属意識と監視の眼差しを支えていた日本ですが、
今は「世間」はツイッターというコミュニケーションツールの監視に一部取って代わったのかもしれません。

×馬鹿をやると世間様に顔向けできない
○馬鹿をやると発見されて世間様に強制顔向けさせられる

「ほら見ろ!これが世間だ。恥を知れ!!」みたいな感じでしょうか。

いずれにせよ測るべき軸は帰属意識を持っているコミュニティが
「広いか狭いか」「開放的か閉鎖的か」ではないでしょうか。


まぁ私はバレずにかつ迷惑かけない範囲であれば仲間内ではどんどん非常識をヤレば良いと思っています。
馬鹿をできる自由だってあるのだから、完全に閉鎖系のコミュニケーションツールでやれば
「非常識の馬鹿」も「常識」として保って遊べるのにと思うのですが、非常識な考えでしょうか。

低学歴と高学歴の世界の溝 in 関西ローカル

低学歴と高学歴の世界の溝:はてな匿名ダイアリー

私のいる世界

地方都市で、低学歴と高学歴の世界が交わるとき

これらの記事は私も皮膚感覚で色々と共感できる一方で、これが関西地方になるとまた独特の要素が入って来る。

関西ローカルの低学歴世界はまぁ酷いし、それを良しとする文化的地盤があるのがやっかいなのだ。

それを大学に行かない友人が大半だった小中学校時代の自分の経験と、そこそこ高学歴の関東の大学に入ってからのカルチャーショックを踏まえて書いてみたい。


結論から言うと関西ローカルでは「低学歴と高学歴の溝」を「諧謔文化」が支えている。

関西の地方では知識や議論や意味というのが全く「深まらない」!笑いを取るやつがスクールカーストの上位にくるため、

まじめに知識や意味を知っているやつより、知識や意味を茶化す技法を身につけているやつがモテるし偉いと見なされる。

この違いにはっきり気づいたのは関東の大学に入ってからだ。関東で知り合った友人が自分の趣味の魅力を淡々とこちらに

語りかけてきて他の友人もそれにさらに自分の知見を述べて、議論や話が深まっていくのを見たときだ。

もしこれが関西だったら少しでもマニアックな知識が出てきたらそれが隠語になって遊びへと横滑りしていく。

例えば俺が特急列車の「やくも」が好きで、こう言ったとしよう。

「‘やくも’って島根を走ってる特急列車があって出雲地方の八雲立つって言葉から命名されたんだってさ」

自分の印象では関東の大学でこういう話をしたら、友人はこんな返しをしてくれる。

友人A「出雲地方って今でこそ人口が日本で二番目に少ない県だけどヒミコのロマンなんかもあって旅行で行ってみたいよね」
友人B「そうそう、荒神谷遺跡とかもあるし面白いよね」

みたいなイメージだ。あくまでもイメージだが、ある知識に対してさらに自分の持っている知識で返してくる。

これが関西の地方だったらどうなるか。

俺「‘やくも’って島根を走ってる特急列車があって出雲地方の八雲立つって言葉から命名されたんだってさ」
友人A「あー、‘やくも’な、小さい頃よくおかんが晩飯に出してたわ」
友人B「生きのいいやくもが入ったときは、刺身がうまいよな」

これが関西だ。全く話が深まらない!ちょっとでも変わった知識を披露したら関西では完全にネタにされる。

これはその瞬間は面白いのかもしれないが、どんな話をしてもまったく同じ話になるため友だちと話をしていて知識や議論が深まることがない。

だからそのうちに真面目に何かを憶えて話す気がなくなる。「もうええわ」となってそういう話自体をネタ以外の意図で出すこともなくなる。

そうして真面目に何かを語りたい奴は「さむい奴」と見なされて会話の輪から排除される。

真面目に何かを考えたり知識を深めるのではなく、茶化しのノリだけで常に会話が回っていくからノリだけで知識や物事を知らずとも何となく生きていける。

関東の大学では違っていた。自分が知らないことを会話されたら、それをそもそも少しでも知らないと上手く会話の輪に入れない。

上手く茶化す奴ではなく、よく知っている奴がすごいなと思われる。いわゆる「リテラシー」の捉え方の違いだ。

大学を出て社会に出て色々な知識や考えを経て地元の友だちに会うと彼らとの会話は小中学校の頃と何も変わらない。

茶化しのパターンだけは洗練されている。しかし肝心の中身がないから会話には幅や深みはない。

なんとなく分かっている、なんとなく知っている、なんとなく会話している感じで日常が回っていく。

真面目に理解したり、知ったり、語ることは「サムイ」奴のやることだと思っている。

それが良いのか悪いのかはよく分からない。

あぁそうだ、これは関西芸人の「バラエティ番組」そのものじゃないか。

いずれにせよ、地方の大学に行かない友人が大半の小中学校時代と、関東の大学時代に

こういう文化の違いを感じたことを思い出した。

どっちの世界が好きかって?関西ローカルだよ馬鹿野郎、だから全く深まらないんだよ。





追記:たくさんコメントいただいてありがとうございます。色々な意見をもらえて正直に嬉しく思っています。

半分お叱りのようなコメントもありましたwそのなかで「知識は前提で茶化すのが至高」みたいなコメントも多くいただいてたと思います。

「笑いと深さは両立する」というような指摘もありました。どちらもその通りだと思います。上方落語の話も「そうなのか」と自分の無知を痛感し、

なんでお前らに叱られなあかんねんと素直に反省する部分もありました。

けれども伝えたかったのは、そういう笑いと深さが両立した世界とは別に、茶化す技術だけを高めて

深まらずに知識がなくとも回っていく世界があるということでした。

インスタントのうどんに入っているエビを想像してみてください。

一見立派なエビ天ですが、周りはほぼ衣です。エビだろうとアナゴだろうとトンカツだろうと、

中身がほんの少しでも、笑いの技術があれば全て立派に見せることができてしまう

そういう世界だったと思っています。お腹いっぱいになって、でも何食べたのかって振り返ると

なんだかいつも同じだったような感じがする。そんな会話の世界です。

憲法改正どうおもう」⇒「お前の天パが憲法違反やろ」

「消費税増税ってどうよ」⇒「お前のモジャモジャに課税したいわ」

「TPPどうなるんやろな」⇒「頭がTPPやないか」

こんなんです。一週間後にはクラス全員から「TPP」と呼ばれ、もう一人の天然パーマとジャンケンさせられて「TPP交渉始まった」とか言われるんです。

ともかくどんな話題でも知らなくてもなんとかしてきます。

ある意味凄いと思うのですが、凄すぎて知識や深まりが必要ないんです。

もちろん自分のいた地域の話を「関西ローカル」として一般化してしまったので

「違う」と思った関西の方もいたと思います。

少なくとも自分のローカルの体験はこんな感じでした。

はっきり言えるのは、「知識」が前提で「諧謔」があるのではなく、

諧謔」ありきで「知識」をそれっぽくつけようとするスタンスの違いでした。

対談「ネット時代に、なぜ「読書」が大事なのか?」への感想

対談「ネット時代に、なぜ「読書」が大事なのか? 」

が面白かったので要点と雑感を覚え書き。

タイトルの問い「なぜ読書が大事なのか」への答えは簡明。

ストーリーの編集力を養えるからだ。

いくら題材やアイデアが良くても、それが提供される順番や文脈が適当でなければ題材やアイデアは台無しになる。

例えばコース料理で、いきなりチョコレートケーキが出て来て、そのあとA5ランクの和牛が出てきたら食材は台無しだ。

胃が準備運動をして段々と食べ応えがあるものが登場する、そういう提供の「順番」を考えないといけない。

これを対談では「組み合わせ」、厳密には「順列」の「編集力」と呼んでいる。

ではどうやってこの順番や順列の編集力を養うことができるようになるのか。

それが読書だ。すぐれた本には論理的に時間の流れが編集されていると楠木教授は言う。

つまり情報が頭に入って来る順番が「論理的」に編集されている。その編集のされ方を読書から学ぶことができる。

ウェブの時代は情報が散在しているので、本のように時間的な編集がなされていないことが多い。

つまりウェブ時代に時間が編集されていない情報に触れる機会が増え、それゆえに逆にそれらの情報を編集する能力が益々必要になるというわけだ。

そして対談は最後、自分でものを考える重要性という話に辿りつく。

これは読書を「効率的なストーリーの組み立て学習と考えるな」という牽制だ。

対談で両者は論理を細切れではない長い時間の編集という観点で論じ、効率的な時間消費指向を批判的に捉えている。

そうなると結局「読書」を効率的なストーリー学習と考えると矛盾が生じる。

たしかに読書でストーリー学習を学べるが、それは効率的に時間を編集するためではない。

効率性ではなく編集された長い時間にこそストーリーという付加価値が生じる。

その編集の仕方は学習しながらも各自が「時間をかけて」独自の手法を生みだしていくべきものである。

自分の頭で考えることは効率性とのある種の闘いである。

炎上商法とヒトラー

炎上商法が有効なマーケティングだと言う人は、

ヒトラーは歴史的に有名になったから偉大」と言うのと変わらない。

叩かれるようなことをしようが、注目されればOKなら、

もっとも偉大な炎上商売をやった人は

世界史に残る犯罪者ということになるがそれで良いのだろうか。

女装と批評

なぜトランスジェンダーの人には批評家になる流れがあるのか。
これまでも美輪明宏、ピーコまた近年では女装化のマツコやミッツマングローブなど批評家の系譜がある。

しかしそもそも最近の女装家とは何なのか。
知恵袋の誰かの解説を参照すると(→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463291734
性と身体と外見の違いでこう分けることができるらしい。


① ニューハーフ(同性好き:性転換手術:あり、女装:あり)

② オカマ(同性好き:性転換手術なし:女装:あり)

③ ホモ・ゲイ(同性好き:性転換手術なし:女装:なし)

④ 女装(同性・異性好きはよりけり:性転換手術なし:女装:あり)


女装家は同性愛者ということではなく「ストレート」が多いらしい。
では一体なんのために女装をしているのか。

おそらく、社会の外にでるためではないだろうか。

マツコやミッツなど、女装家は批評家や批判眼で注目されている。
もともとオカマやゲイの人にも社会批評家は多かった。
これにはちゃんとした根拠がある。

オカマやゲイはいわゆる「マイノリティ」である。
彼らは社会、他人、ましてや家族からも奇異の目で見られてきた経験を持つ。
奇異とは「普通とようすが違って」いることであり、「普通」とは社会常識のことである。

つまりオカマやゲイは社会常識の外で暮らしてきた経験を持つ。
それゆえ社会を外から眺める批判眼を持たざるをえなくなる。
女装化は批判眼を持たざるをえなかった人々ではない。
むしろ「ストレート」であっても社会の外に立ちたい人こそが自ら女装し、
奇異の目で見られることで自発的に社会の外に立たんとしている。

女装とはつまり社会の外への入り口である。

こうして考えれば、同じような最近の例として「尾木ママ」がオネェ言葉になる理由も推測しうる。
彼は「生徒と交換日記をやりとりしていてオネェ言葉になった」と聞く。
教師というのは学校において常識を象徴する立場にある。
しかし思春期の常識に疑問を抱く生徒と心通わすためには自分が凝り固まった常識の体現者であってはならない。
学校という常識の塊に疑問を抱く生徒には「先生は実は普通ではない」ことを表明することこそが、心を開いてもらうパスポートの役割を果たすのかもしれない
オネェ言葉は、自分が普通ではないことを表明するドレスコードのようなものだと思う。
オネェにはなぜか相談できてしまう。
彼はそういうスキルを用いている。